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初詣節分紀元節祈年祭(春祭り)雛祭(3月3日)端午の節供
夏越の祓(6月30日)夏祭り七夕精霊祭八朔重陽の節供秋祭り
神嘗祭七五三祝い新嘗祭年越の祓(12月31日)除夜
お正月に社寺に参拝することを初詣と言います。正月というものは、不思議にも清く明るい心を持たせるもので、平安の昔紀貫之は、
今日に明けて昨日に似ぬは皆人の心に春の立ちにけらしな(『玉葉私歌集』)
と詠じました。元旦とて大晦日の延長に過ぎないが、万物が一新して感じられるのは、人の心に春が立ち返るからであろう、という意味です。従って平常は世事に煩わされている人々も、純真な気持ちになり、今年こそ正しい生き方で精進しようと誓うのです。
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節分とは、季節の変わる節目の意味で、本来は立春、立夏、立秋、立冬の前日をさしますが、今日では冬から春に移る立春の前日のみをさし、旧暦では元旦から7日までの間にあたります。また古くより宮中において行われていた追儺(ついな、疫鬼を追払う行事)行事が、立春をもって年が改まるという考え方から、節分の日に行われるようになったといわれています。現在の節分行事(豆撒き行事等)は室町時代に一般化したといわれ、鬼と神主の問答の後、言い負かされた鬼が退散する時に年男が、『鬼は外、福は内』と勇ましい声を出して豆撒きの鬼ヤライをする形が一般的となっています。
このような節分祭は、冬の間の暗い気分を一掃し、希望に満ちた新春を迎えようとの日本人の除災招福の願いがこめられているのです。
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『日本書紀』によると、神武天皇が大和国橿原で御即位されたのが辛酉の年正月元日、現在の2月11日にあたるところから、この日が紀元節(建国の日)と定められました。紀元節は戦後一時廃止されましたが、昭和41年に復活し、新しく「建国記念の日」と改称され、この日は建国をしのび国を愛する心を養う日となっています。
また当日は、神武天皇を御祭神とする橿原神宮(奈良県)の例祭日ともなっており、全国の神社でも紀元祭を斎行し、神武天皇の建国の偉業をしのび、日本民族としての自覚を深め皇室の弥栄と国家の隆昌を祈る日となっています。
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祈年祭は古く「としごひのまつり」と読まれ、「とし」は穀物、とくに稲を意味し、稲が豊かに実る豊作を祈る祭りです。奈良・平安時代には、朝廷においてこの祈年祭が行われ、神宮をはじめ全国の神社に対し幣帛が奉られるという、国をあげての豊作と生産の向上とを祈る祭りであったわけです。現在でも2月17日には宮中・神宮をはじめ、全国の神社においてもこの祈年祭が執り行なわれ、豊作のみでなく商工業など諸産業の発展、国家の繁栄等が祈願されています。
また全国の神社では、京都府下の神社にもみられるようにお田植祭、筒粥(つつがゆ)などの春祭り独特の神事も行われます。春祭りにはこのような収穫への祈りのほかに、春分の日に宮中で行われる春季皇霊祭、民間では彼岸の墓参が行われることをみてもわかるように祖先崇拝の意味もあることも忘れてはなりません。
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雛祭は別称「桃の節供」ともいい女児の祝日とされています。雛飾りの風習は室町時代、宮中貴族の間に始まり、後には武家の間に、そして江戸時代には庶民の間に一般化していきました。
供物の白酒は、正月のトソと同じく邪気を祓う薬酒を意味し、草餅は薬を、また菱餅は心臓をかたどったものともいわれ、それぞれ除災招福を願うしるしでもあります。
この雛祭の起源は「人形」(ひとがた)といわれ、人形に自分の罪けがれを負わせ、神に清めていただくという意味もあるとされ、この季節の祭りの「物忌」(ものいみ)であるともいわれています。
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端午とは、「初めの五」の意味で5月の初めの5の日という陽数の重なる日を瑞相として祝う中国の風習からきています。
端午の節句は、3月3日の雛祭と同じく「祓え」の祭日でもあり、5月のサツキのサは山から下られた神のことで、この田の神を祭るための日がこの日になったともいわれています。
現在の武者人形、鯉幟の風習は江戸時代に一般化し、人形、鯉幟自体も神霊の所在を示す依代(よりしろ)であろうといわれています。
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「水無月の 夏越(なごし)の祓する人は 千歳のいのちのぶといふなり」
多くの神社で6月30日に大祓式が執り行なわれます。
大祓式の祖型は伊邪那岐命のみそぎ祓にもとめられます。特にこの6月の大祓(おおはらえ)は、一年の後半期のはじめの盆祭りを迎えるためのお清めの儀式であり、疫病等の多い夏を無事にのりきろうという意味でも「夏越の祓え」「難越の祓え」ともよびならわしています。
この大祓は、古くは国家的行事として内裏の朱雀門前に文武百官を集めて行われました。国中の罪けがれを祓い清め、災厄のない平穏な生活への期待から行われていたと思われます。
即ち大祓は、人間が知らず知らずの内に犯した罪、積もり積もった心身のけがれ、全ての災厄を消滅し、清浄な本来の姿をとりもどすための宗教行事です。また、この日に行われる茅の輪くぐりは、須佐之男命の除災の故事に起源を発しますが、これは生き生きとした生命力あふれる川辺の草々に清浄の道具としての性質を認め、祓に用いたものであるといわれています。
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夏祭りは、神社によってその性格はさまざまです。水に関するお祭りや、害虫を追い払うお祭り、七夕のお祭などもありますが、その多くは疫病や災害を祓う性格のものです。神輿(みこし)や山車(だし)の巡行など、賑やかな行事が行われることが多く、茅の輪くぐりなど大祓の行事と一体になっているところもあります。
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牽牛、織女を祭る七夕祭は古く奈良時代より行われ、その起源は中国の「乞巧奠」(きこうでん)という星祭りを移入したものといわれています。
七夕は棚機とも表現され、タナバタヒメを意味するともいわれますが、一方では盆の先祖棚のタナを飾るハタのことであり、七夕の軒飾りは祖霊の依代である笹飾りであり、盆の祖霊祭に先行する招霊の行事でもある盆行事とひとつづきのものであるといわれています。
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精霊祭は7月13日より16日の4日間にわたって行われる祖霊を祭る行事で、13日に迎え火、16日に送り火を焚くというものです。
わが国で現在盛んに行われている盆の諸行事は、いづれもこの精霊祭に端を発したもので、時代の変遷とともに同化していったものといわれます。京都では月遅れの8月に行ない、8月16日には大文字五山送り火が夜空を焦がします。
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八朔(はっさく)は、8月1日を祝う祭として、民間に発した行事であり、後には武家、公家の間に広まり、やがて神社の神事になっていったといわれています。
この時期は稲の実る時期であり、地方によっては田ほめ、作頼みといって穂の出る祈願を行うところもあります。さらにはその出た穂を神に奉る初穂、穂掛けといった神事もみられます。本来は早くに熟した稲を刈り取り、新米を調製して神に供え、仕事を共同にした人々に贈答していましたが、中世にいたって武家や公家の間に流行し、いわゆるタノム(頼む)の節供となったといわれます。そして、神に供える新穀は武家社会の主従関係を維持するための贈答の具となっていったのです。
また、民間ではこの日を休日とし、奉公人等は里帰りをするという風習もあったようです。
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1月7日の人日(じんじつ)、3月3日の上巳(じょうし)、5月5日の端午(たんご)、7月7日の七夕(しちせき)、9月9日の重陽(ちょうよう)の5回の式日の一つで、朝廷の儀式の一つであった五節会に対し、公家以下庶民の行事となっていました。鎌倉時代からは朝廷でも行われるようになり、江戸時代には「節句」の字が用いられるようになりました。この重陽は旧暦9月9日、宮中においては天皇が紫宸殿に出御され、群臣に宴を賜り、詩歌文章をつくらせるという菊花の宴が行われるというものでした。重陽は月と日に9の陽数が重なることから名づけられ、明治7年廃止されましたが、3月3日の上巳は雛祭、5月5日の端午は子供の日、7月7日の七夕は七夕祭として現在も盛んに行われています。
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春祭りがその年の豊作と繁栄を祈念するお祭なら、秋祭りはその年の収穫と神様のご恩に感謝するお祭です。お祭の時期は地方によってさまざまですが、ご神前にその年の初穂(その年に最初に実った稲)をお供えします。
伊勢神宮で10月17日に行われる神嘗祭(かんなめさい)や、全国の神社で行われる新嘗祭(にいなめさい)もその年の収穫を祝い神様に供えることにより感謝の意を示す祭です。
神嘗祭には、天皇陛下が皇居内の水田で御自ら作られた稲の初穂や、全国の農家からも初穂が奉納されます。また全国の多くの神社では11月23日に新嘗祭(にいなめさい)が行われ、新穀を神前にお供えして収穫を感謝するとともに、諸産業の発展躍進と国家・国民の安泰・繁栄を祈願します。
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10月に行なわれる神嘗祭(かんなめさい)は、伊勢の神宮の最も重要な祭典の一つで、その年に収穫された新穀を天照大御神に奉る祭りで、「かむにえのまつり」ともいわれています。
現在でも天皇陛下御自ら皇居内の水田で作られた稲の初穂や、全国の農家からの初穂が奉納されています。このような祭りは収穫に対する感謝の意味を表したものといえます。豊受大神宮(外宮)においては10月15日の夕刻、16日の朝方にそれぞれ由貴大御饌(ゆきのおおみけ)をお供えし、16日の昼に勅使参向の下、奉幣の儀が行なわれ、ついで皇大神宮(内宮)では16日の夕刻と17日の朝方に由貴大御饌が供進され、17日の昼に勅使参向の下、奉幣の儀が執り行なわれます。また同時に皇室におかれても天皇陛下が神宮を遥拝され、賢所において御親祭が行われています。
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一般に11月15日には、3才・5才の男児、3才・7才の女児が両親に連れられて神社に参詣し、七五三のご祈祷を受けます。七五三の起源は平安時代頃から行われていた男女3才の髪置(かみおき)、男子5才の袴着(はかまぎ)、女子7才の帯解(おびとき)の祝いの儀式で、11月に定着したのは、徳川将軍綱吉の子徳松が、この日に髪置の祝いをしたことに始まったともいわれています。
今日では神社に詣で、神様に日頃のご加護に対しお礼申し上げ、今後益々立派に成長するようにと祈願します。
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新嘗祭は11月23日に行われ、「にいなめのまつり」と読み、ニイナメは新饗(にいあえ)の義で、新(にい)は新穀、饗(あえ)はご馳走の意味を持っています。つまり2月11日の祈年祭に五穀の豊穣を祈り、神の恵みによってその収穫を見るに至って、まず新穀を神前にお供えして、五穀の永遠なる根源を顧みると共に、広大な神の恵みを感謝し、諸産業の発展をも祈る祭りです。
また、皇居では天皇陛下が新穀を天照大御神をはじめ神々に奉り、自らもお食しあがりになられます。
伊勢の神宮では、10月17日に新穀を天照大御神に奉る神嘗祭(かんなめさい)が執り行われます。これも新嘗祭と同じ意味を持った祭りで、当日、全国各神社においても遥拝式等が行われます。
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一年を前半期と後半期の二期に分けるという暦の古法により、一年の前半期の初めの正月を迎えるためのお清めの祓ともいわれ、6月の夏越しの祓とともに重要な儀式となっています。
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古来、除夜はオオトシ、トシノヨとも呼ばれ、歳神を迎えるために厳重な物忌をして終夜起き明かすというものでした。
この日がその年の終わりの日であるとともに、来年に続く夜という意味で、終夜家中の人々がだんらんしながら語り明かし、元旦を迎えるという一種のオコモリであるともいわれています。
また、この夜の食事は特殊な食物をとるのが一般的で、年越しのそばもその一種であろうと思われます。
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